長崎 軍艦島Tour


1日目:  神戸空港から長崎空港へ飛ぶ。。リムジンバスで嵯峨崎駅前へ。グラバー園、カトリック大浦教会、祈りの丘 絵本美術館、出島を順に観光し後、ホテルへここで泊。
2日目: ホテルをでて、軍艦島クルーズの後、長崎平和記念館、浦上天主堂、原爆資料館、めがね橋、シーボルト記念館を訪ねて、ホテルへ。
3日目: ホテルを出て、諏訪神社、長崎歴史文化博物館、サント・ドミンゴ教会跡を訪ねた後、リムジンで長崎空港に向かい帰路に。

2日目  2025/9/10
3日目  2025/9/11


1日目  2025/9/9(火)      

行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。

神戸空港から長崎空港へ飛ぶ。。リムジンバスで嵯峨崎駅前へ。グラバー園、カトリック大浦教会、祈りの丘 絵本美術館、出島を順に観光し後、ホテルへここで泊。 

グラバー園
グラバー園は、日本の長崎県長崎市南山手町8-1にある観光施設である。1859年の長崎開港後に長崎に来住したスコットランド人商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築しており、野外博物館の状態を呈している。
グラバー園 第2ゲートから入場し、下りながら展示館を順にみていった。第2ゲート前の展望台からの長崎市内を見る。
①旧三菱造船所第2ドックハウス
この建物は1896年、三菱造船所第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎である。ドックは造船所の主要施設で、船の建造や修理を担う。三菱造船所は、1857年創業の長崎溶鋼所を前身とする。1884年に創業し、対岸に見えるのが現在の工場である。ジャイアント・カンチレバークレーン(1909年)、第三船渠(1905年)などが2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産}に登録された。
①旧三菱造船所第2ドックハウス
この建物は1896年、三菱造船所第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎である。ドックは造船所の主要施設で、船の建造や修理を担う。三菱造船所は、1857年創業の長崎溶鋼所を前身とする。1884年に創業し、対岸に見えるのが現在の工場である。ジャイアント・カンチレバークレーン(1909年)、第三船渠(1905年)などが2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産}に登録された。
①旧三菱造船所第2ドックハウス
この建物は1896年、三菱造船所第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎である。ドックは造船所の主要施設で、船の建造や修理を担う。三菱造船所は、1857年創業の長崎溶鋼所を前身とする。1884年に創業し、対岸に見えるのが現在の工場である。ジャイアント・カンチレバークレーン(1909年)、第三船渠(1905年)などが2015年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産}に登録された。
高島流和砲
高島流和は、長崎に生まれた兵学者、砲術家です。この大砲は高島流和の指導の下、鉄砲鍛冶の野川清造によって造られたものと言われています。
②旧長崎高商門衛所
④旧ウォーカー住宅
ロバート・Ñ・ウォーカーは1898年に荷揚げ業R・N・ウォーカー商会を設立し、事業を幅広く展開した。1904年に販売を始めたバンザイ飲料製造会社の清涼飲料は大ヒットした。
もともと南山手28番地にあったこの住宅は、1908年に事業を譲り受けた次男ロバート・ウォーカー二世が1915年に購入し、生涯を過ごした。瀟洒な外観、デザインを凝らしたベランダ、張り出し窓、暖炉などから、居心地の良さが感じられる。ほかに、風呂、トイレ、和室もあった。
③旧長崎地方裁判所長官舎
旧長崎地方裁判所長官舎は、長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として建てられた。長崎控訴裁判所は、1886年に長崎控訴院に改称。控訴院が1945年に福岡に移転すると、本建物も控訴院官舎から長崎地方裁判所長官舎となった。歴代の裁判所長と家族が暮らし、室内には洋室と和室の両方が造られた。大きな玄関を設け、屋根の軒は重厚な蛇腹で飾り、上げ下げ式の窓が並ぶ。明治初期の洋風建築の中でも、より豊かな装飾をもつ。
③旧長崎地方裁判所長官舎
旧長崎地方裁判所長官舎は、長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として建てられた。長崎控訴裁判所は、1886年に長崎控訴院に改称。控訴院が1945年に福岡に移転すると、本建物も控訴院官舎から長崎地方裁判所長官舎となった。歴代の裁判所長と家族が暮らし、室内には洋室と和室の両方が造られた。大きな玄関を設け、屋根の軒は重厚な蛇腹で飾り、上げ下げ式の窓が並ぶ。明治初期の洋風建築の中でも、より豊かな装飾をもつ。
三浦環の像
日本が生んだ世界的プリマドンナ:三浦環はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが長崎を主題としたオペラ マダムバタフライ(蝶々夫人)を30年の長きにわたり世界各国で2000回以上演じた日本を代表するプリマドンナです。1915年のロンドン初演から作曲者プッチーニに「理想の蝶々さん」と絶賛され、その功績から静岡国際オペラコンクールの創設や、出身地・ゆかりの地に銅像が建てられました。
フリーメイソン・ロッジの門
フリーメイソンは中世イギリスで数々の大聖堂を建てた石工らのよって始められた友愛団体である。長崎におけるフリーメイソンのロッジ(支部)は、1884年、長崎造船所に雇われた外国人技師たちによって発足された、会員のひとりであった英字新聞の編集者アーサー・ノーマンは自社の2階をロッジとして提供し、敷地の入口にフリーメイソンのマークが刻まれたこの門柱を建てた。その後1971年、松ヶ枝町47にあったこの門はこの場所に移築された。
⑤旧リンガー住宅           国指定重要文化財
この敷地は、トーマス・グラバーの弟アレキサンダーが1864年に永代借地権を取得し、1868年に住宅を建てた。フレデリック・リンガーが取得したのは、1874年で、結婚を機に、1883年から自宅とした。1913年からは次男シドニー・リンガーが住み、戦時の混乱を経て、1965年まで家族と暮らした。
フレデリック・リンガーは、中国・九江で茶葉検査官を務めた頃にグラバー商会に招かれ、1865年から長崎で製茶と輸出を監督した。1868年に同僚エドワード・ホームとホーム・リンガー商会を立ち上げ、グラバー商会の茶葉貿易を引き継いだ。事業は貿易・保険・海運会社の代理店、領事業務、英字新聞刊行、ホテル経営と多角化し、長崎の明治期の産業経済界に大きな功績を残した。
構造は、木造に外壁を石造りとし、天草の砂岩を使う。ベランダはウラジオストックから運んだ御影石を床に敷く。正面中央が出入り口で廊下左右に4室を配置する。厨房とメイド部屋が附属する。
⑤旧リンガー住宅         国指定重要文化財
この敷地は、トーマス・グラバーの弟アレキサンダーが1864年に永代借地権を取得し、1868年に住宅を建てた。フレデリック・リンガーが取得したのは、1874年で、結婚を機に、1883年から自宅とした。1913年からは次男シドニー・リンガーが住み、戦時の混乱を経て、1965年まで家族と暮らした。
フレデリック・リンガーは、中国・九江で茶葉検査官を務めた頃にグラバー商会に招かれ、1865年から長崎で製茶と輸出を監督した。1868年に同僚エドワード・ホームとホーム・リンガー商会を立ち上げ、グラバー商会の茶葉貿易を引き継いだ。事業は貿易・保険・海運会社の代理店、領事業務、英字新聞刊行、ホテル経営と多角化し、長崎の明治期の産業経済界に大きな功績を残した。
構造は、木造に外壁を石造りとし、天草の砂岩を使う。ベランダはウラジオストックから運んだ御影石を床に敷く。正面中央が出入り口で廊下左右に4室を配置する。厨房とメイド部屋が附属する。
⑦旧スティール記念学校
旧スティールアカデミーは、東山手9番の英国領事館跡地に建てられた。設計はアメリカ人宣教師ヘンリー・スタウトで、1887年9月に開校した。スティールアカデミーの名称は、早世した息子を偲んで寄付を寄せた宣教師W.H.スティールの名に因む。長崎では東山(とうざん)学院と呼ばれ、英語教育と特色ある学風で知られた。東山学院が1932年に東京の明治学院と合併されると、長崎公教神学校、東陵中学校、開星学院校舎と変遷した。
⑦ 旧スティール記念学校
旧スティールアカデミーは、東山手9番の英国領事館跡地に建てられた。設計はアメリカ人宣教師ヘンリー・スタウトで、1887年9月に開校した。スティールアカデミーの名称は、早世した息子を偲んで寄付を寄せた宣教師W.H.スティールの名に因む。長崎では東山(とうざん)学院と呼ばれ、英語教育と特色ある学風で知られた。東山学院が1932年に東京の明治学院と合併されると、長崎公教神学校、東陵中学校、開星学院校舎と変遷した。
⑨グラバー邸
この住宅は、ウィリアム・オルトが自邸として建築した。施工は天草の小山秀之進である。秀之進旧蔵の設計図には、英語で部屋名と寸法が記され、日本の尺寸が書き加えられている。室名はVerandah(ベランダ) Entrance(出入口) Drawing Room(応接間) Dressing Room(居間) Passage(廊下) Bedroom(寝室4室) Bath(浴室4室)などからなる。建物は大規模で、木造に外壁は石造りとし、天草の砂岩を使う。正面中央に車寄せポーチを出し、ベランダはトスカーナ風列柱とする。幕末に遡る洋風住宅は稀少である。背後には、別棟でレンガ造りの厨房と倉庫、岩盤をくりぬいた貯蔵所がある。噴水も建設当初である。オルトは、1860年にオルト商会を開業し、製茶業を足掛かりに貿易商で財を成した。一家は1868年まで居住した。建物は以降、活水女学校校舎、アメリカ領事館、フレデリック・リンガー長男一家の住宅などとして使われた。
⑨グラバー邸
この住宅は、ウィリアム・オルトが自邸として建築した。施工は天草の小山秀之進である。秀之進旧蔵の設計図には、英語で部屋名と寸法が記され、日本の尺寸が書き加えられている。室名はVerandah(ベランダ) Entrance(出入口) Drawing Room(応接間) Dressing Room(居間) Passage(廊下) Bedroom(寝室4室) Bath(浴室4室)などからなる。建物は大規模で、木造に外壁は石造りとし、天草の砂岩を使う。正面中央に車寄せポーチを出し、ベランダはトスカーナ風列柱とする。幕末に遡る洋風住宅は稀少である。背後には、別棟でレンガ造りの厨房と倉庫、岩盤をくりぬいた貯蔵所がある。噴水も建設当初である。オルトは、1860年にオルト商会を開業し、製茶業を足掛かりに貿易商で財を成した。一家は1868年まで居住した。建物は以降、活水女学校校舎、アメリカ領事館、フレデリック・リンガー長男一家の住宅などとして使われた。
グラバー邸へ導く入口、出口の第1ゲート
本来ならここから入り、園内のエスカレーターで登り、①旧三菱造船所第2ドックハウスから順に坂道を下りながら各邸を見て回るように配置されているようだ。反対方向にあった斜めに登るエレベーターで登り切り、裏側門から入り、下りながら順に各邸を訪ねた。


カトリック大浦教会
正面に立つとその大きさに圧倒される。長崎観光の中心地として風致地区に指定されているため、周囲の建物との調和を考慮して赤レンガ風の建物になったそうだ。
正面に立つとその大きさに圧倒される。長崎観光の中心地として風致地区に指定されているため、周囲の建物との調和を考慮して赤レンガ風の建物になったそうだ。
大浦教会の1階は司祭館と各種ホール、2、3階は聖堂として使用されている。聖堂の天井はシンプルな三角形だ。



祈りの丘 絵本美術館
グラバー通り沿いにある美術館。「ねこのごんごん」、「花のうた」などの絵本で知られる画家・大道あやのコレクションをはじめ、国内外の絵本の原画を展示する常設展と企画展を開催。約500冊を閲覧できる絵本コーナーを併設するほか、施設1階は「こどもの本の店 童話館」となっている。
絵本美術館入口
 絵本美術館 本館



出島
徳川幕府の命により築造された人工の島「出島」。
1636年に完成し約200年もの間、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。明治期に役割を終えた出島の周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形は姿を消しましたが、1951年長崎市が出島の復元整備を開始し、現在までに16棟の建物や景観が当時の姿を取り戻しました。まるで19世紀の初めにタイムスリップしたかのような空間が広がります。
出島入口桟橋
出島内の街並み
出島のミニチュア
出島のミニチュア

2日目  2025/9/10(水)      

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ホテルをでて、軍艦島クルーズの後、長崎平和記念館、浦上天主堂、原爆資料館、めがね橋、シーボルト記念館を訪ねて、ホテルへ。

ルークプラザホテル
長崎稲佐山展望台の真下、中腹に立つホテル。長崎市内の夜景がきれいに見えた。
ホテル玄関
ホテル玄関 ~長崎湾を眺める
ホテル玄関 から北東の観光ホテル側を眺める。
ホテルからの夜景。


軍艦島クルーズ
長崎港から船で約40分のところに位置する端島(はしま)。小さな海底炭坑の島は、岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島です。岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋コンクリートが立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期の1960年には約5300人もの人が住み、当時、日本一の人口密度を誇っていました。島内には小中学校や病院などを完備、映画館やパチンコホールなどの娯楽施設もあり生活の全てを島内で賄うことができたそうです。
端島炭坑の石炭はとても良質で、隣接する高島炭坑とともに日本の近代化に大きく貢献しました。しかし、主要エネルギーが石炭から石油へと移行したことにより衰退の一途をたどり、1974年に閉山。島民はさまざまな思いを胸に島を去り無人島となりました。

軍艦島クルーズを行っているクルーズ会社は5社あるようですが、最大手?のやまさ海運の船に乗り込んだ。
出航すぐの長崎湾。
長崎湾は三菱重工業長崎造船所の城下町。
長崎湾は三菱重工業長崎造船所の城下町。
長崎湾は三菱重工業長崎造船所の城下町。海底ケーブルを敷設する船が修繕を待つ。
女神大橋。
女神大橋(ヴィーナスウィング)は、長崎港によって分断されている長崎市南部と西部を最短距離で結んでいます。塔と桁を斜めに張ったケーブルでつないで支える構造を持つ斜張橋としては、国内で6番目の長さを誇り、大型船舶も通過可能な桁下65mの高さを確保しています。また、夜間にはライトアップされ、香港・モナコと共に「世界新三大夜景」のシンボルとなっています。通常は白を基調とした照明ですが、イベントの際は彩りある演出照明がされます。その美しさは「日本夜景遺産(ライトアップ夜景遺産)」にも認定されました。有料道路「ながさき女神大橋道路」となっていますが、歩行者は無料で通行することができます。車の場合は、ながさき女神大橋道路は駐停車禁止なので、駐車場に車を止めて散策しましょう。
女神大橋。
このクルーズで橋をくぐったが、その3日後の深夜、大型トレーラーが普通乗用車と衝突し欄干に突っ込み、その運転手は真下の海で死亡していたと報じられている。
女神大橋。
伊王島に立つ沖ノ島天主動が見える。
伊王島に立つ沖ノ島天主動が見える。
伊王島大橋を潜り抜けた。
高島炭鉱のあった高島と高島飛島を結ぶ橋が見える。
別会社のクルーズ船が見える。
波が高く、軍艦島(端島)沖を何周かしただけで上陸は出来なかった。、
波が高く、軍艦島(端島)沖を何周かしただけで上陸は出来なかった。、
動画はFacebookにあります。


長崎・平和記念像
平和公園の一番の象徴といえば、「願いのゾーン」にある「平和祈念像」だろう。長崎市民の平和への願いの象徴として1955年(昭和30年)につくられたもので、高さ9.7メートル、重さ30トンと巨大な青銅製の像は迫力満点。制作者は、長崎出身の彫刻家・北村西望氏だ。この像は“神の愛と仏の慈悲を象徴”とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じたまぶたは“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込め、つくられたという。被爆都市・長崎のシンボルであり、多くの市民からはもちろん、市外から訪れた人々にも平和の尊さを示している。
長崎刑務所浦上刑務支所
長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地より北へ最短100m、最長350mの地点にあり、爆心地に最も近い公共の建物であった。1945年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾のさく裂によって、刑務所にいた職員18名、受刑者および刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)計132名全員が即死した。刑務所の木造庁舎は炊事場の煙突一本を残し倒壊全焼し、また周囲をめぐらせた高さ4m、暑さ0.25mの鉄筋コンクリート塀も基礎部分を残して倒壊した。その後、1949年、特別法としての長崎国際文化都市建設法が制定されるに及び、この地は平和公園として整備され、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う人々の聖地としてよみがえった。
平和記念像
長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。(高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 制作者:北村西望氏)
制作者は長崎出身の彫刻家で、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。
平和記念像
この平和記念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる祈念により、世界恒久平和のシンボルとして1955年8月の原爆10周年記念日に建立されたものです。
平和記念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っている姿で有ります。
なお、折り曲げた右足はめい想すなわち静、立った左足は救済すなわち動、いずれも神仏の特性を表したものであり本像はその規模において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない雄大な芸術作品であります。
折鶴の塔
1982年(昭和57年)に建立され、先端に黄金の鶴が輝く「折鶴の塔」。原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度と原爆の悲劇を招くことがないよう、世界平和を祈って寄せられた折鶴を掲げた塔です。
平和記念像
この平和記念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる祈念により、世界恒久平和のシンボルとして1955年8月の原爆10周年記念日に建立されたものです。
平和記念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っている姿で有ります。
なお、折り曲げた右足はめい想すなわち静、立った左足は救済すなわち動、いずれも神仏の特性を表したものであり本像はその規模において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない雄大な芸術作品であります。


浦上天主堂
浦上地区の小高い丘に[注 5]、ほぼ西向きで建てられた教会堂である。外観はロマネスク様式で創建当初はレンガ造り、再建後はコンクリート造りでレンガタイル張りとなっている。鐘楼は聖堂の正面左右に双塔を備える。ファサードは創建当初多数の窓を備えており、戦後の再建直後も概ね同じ構造だったが、1980年に実施されたレンガタイル張りへの改修時に大幅に簡略化されている。また、双塔のドームも再建後を創建当初と比較すると5m程度低くなっているなど細部には相違点が見られる[22]。
内部は当初袖廊を持ち、三廊式でリブ・ヴォールト天井を備えていたが、再建後の現在は単廊式で天井はリブ・ヴォールトに似せたものとなっている[22]。現在の聖堂内の十字架の道行きは上五島出身でカトリック関係の作品を多く手がけた芸術家[23]の中田秀和によって描かれた壁画となっている[24][25]。
平和公園の高台から望む浦上天主堂
浦上天主堂
マリア様
原爆場風で首が吹き飛ばされた石像も
浦上天主堂
1945年原爆により倒壊し、主任司祭の西田三郎神父らと信徒20数人が犠牲になったほか、当時の浦上カトリック信徒約12000にんのうち約8600人もの尊い命が奪われました。1946年戦後の苦難の中にあって、生き残った信徒達の手で木造の仮聖堂が建設され、1959年には現在地に鉄筋コンクリート造の聖堂が再建されました。
1981年ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が来訪され、叙階ミサが挙行されました。現在、聖堂入口両脇には「悲しみの聖母」像と、「使徒聖ヨハネ」像が、被爆マリア像小聖堂には瓦礫の中から奇跡的に発見された「被爆マリア」像と、無原罪のマリア像復元造形(レプリカ)がアンチされています。また、隣接する信徒会館内には破壊された左鐘楼の小鐘等が展示され、被爆の実相と平和の大切さを伝えています。
日本の信徒発見150周年記念「旅」殉教への門出
教皇ヨハネ・パウロ二世
私は、栄光と悲劇の跡をとどめている歴史の町ここ長崎を訪れ、栄光を勝ち誇り悲劇を乗り越えた人々の子孫であり、後継者である皆さんにお話しできることを神に感謝します。私は大きな愛情と、この地方教会の素晴らしいカトリックの伝統に対する深い尊敬の念をもって皆さんにご挨拶の言葉をのべます。
       1981年2月25日に修道女たちに説教された冒頭の言葉
拷問石
教会に面した庭園には山口県の萩で使われた「拷問石」と呼ばれるものがあります。萩は浦上四番崩れ(1867–1873)の際に浦上キリシタンが流された土地のひとつでした。キリシタンたちはこの石の上に正座させられ、命を失うか棄教するまで野ざらしにされました。
拷問石
1867年の「浦上四番崩れ」によって浦上のキリシタン約3400名は西日本各地へ流配された。そのうち弾圧が厳しかった山口の萩藩に3400名の浦上キリストが送られ、岩国屋敷に収容された。その萩では流配が解かれた。1873年2月までに39名が死亡。無事帰還できたものは264名であった。萩では、不改宗者にはろくに食事も与えず、日々過酷な拷問が加えられた。特に寒ざらしの刑は真冬に裸で、庭石の上に正座させられ改宗を迫られた。この石(花崗岩)は「拷問石」と呼ばれた。有名な。「寒ざらしのツル」の話では、22歳の岩永ツルが18日間取り調べを受けた。その後、腰巻ひとつで拷問石の上に正座させられ、1週間目には大雪に漏れてツルの黒い紙だけが見えた。それでも彼女は強い信仰心に守られ改宗することはなかった。これ以降女性に対する拷問はなくなった。1912年の頃、当時の牢番長はこの石を萩市内の自宅に持ち帰り、庭に据え供養の「経石」を埋めて霊を慰めた。1990年保管していた信徒を通じて萩教会へ移設。2008年7月に浦上教会へ寄贈。同年11月23日、ローマ教皇代理のマルチンス枢機卿により祝福を受けた。この「拷問石」は流配の証言者として信仰の史実を物がったっている。



原爆資料館
1945年8月9日 午前11時2分。
広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し、付近は一瞬のうちに廃墟と化し約15万人もの人々が死傷しました。この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史などを紹介し、被爆から現在までの長崎の復興の様子をストーリー性のある展示を交えながら、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信しています。被爆直後と現在の長崎の風景写真を比較すると、目覚ましい勢いで復興した長崎の街と長崎市民の逞しさがひしひしと伝わってきます。
原爆史料館 入口


めがね橋
眼鏡橋は、長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球王国だった天女橋を除くと、日本初の石造りアーチ橋である。1960年に国の重要文化財に指定された。
所在地: 〒850-0874 長崎県長崎市魚の町
開業: 1634年
全長: 22 m
橋の種類: アーチ橋
幅員: 3.65 m                          from   ウィキペディア
めがね橋 全景
水面に映し出された影と合わせて名前通り「めがね」に見える。
めがね橋 全景
水面に映し出された影と合わせて名前通り「めがね」に見える。


シーボルト記念館・シーボルト宅跡
シーボルトは、ドイツ生まれの医学者・博物学者で、出島和蘭商館医として1823年に来日しました。江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、科学的な視点で日本の自然や文化などを調査し、ヨーロッパに日本を広く紹介したことで知られています。
そのシーボルトの偉業を今に伝えるために、国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)に隣接して建てられました。
外観はオランダ・ライデン市にあるシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をそれぞれイメージした赤レンガの洋館です。館内では、シーボルトの生涯が紹介されており、全国から集められた約1,500点もの貴重な資料が展示されています。また、企画展示室では年に数回シーボルトに関連した企画展・特別展が開催されます。
日本の近代化に大きく貢献した、Nipponに魅せられた偉人シーボルトに触れ、江戸から明治の激動の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
シーボルト宅跡
シーボルト宅跡


3日目  2025/9/11(木)      

行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。

ホテルを出て、諏訪神社、長崎歴史文化博物館、サント・ドミンゴ教会跡を訪ねた後、リムジンで長崎空港に向かい帰路に。

諏訪神社
鎮西大社と称えられ、地元では"おすわさん"と親しまれる総氏神様。創建は1625年。当時はキリスト教が広まり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されることが多く、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営したものです。1632年には、青木が初代宮司になり、1634年から祭礼を行うようになりました。
現在まで続く秋季大祭「長崎くんち」は、毎年10月7~9日に行われる豪華絢爛でエキゾチックなお祭りで、奉納踊りは国の重要無形民俗文化財に指定されています。
1648年に現在の場所に造営されましたが火災により焼失。孝明天皇の勅命により、1869年に社殿が再建されました。その後2度に渡って造営された現在の社殿は、異国情緒豊かな長崎においては珍しい純和風のたたずまいです。
諏訪神社  大鳥居
諏訪神社  参道
諏訪神社の末社  
諏訪神社 参道石段
諏訪神社
諏訪神社 
諏訪神社  酒田恒山顕彰碑
諏訪神社  酒田恒山顕彰碑
諏訪神社  トゲ抜き狛犬
諏訪神社  トゲ抜き狛犬
諏訪神社  蛭子社
諏訪神社  蛭子社
諏訪神社  赤鳥居
諏訪神社  末社
諏訪神社  末社 厳島神社
諏訪神社  玉苑稲荷の「抱き大楠}
諏訪神社  玉苑稲荷の「抱き大楠}
諏訪神社  厄難除け蛙岩
当神社ご鎮座当時の古図には、この岩に〆縄を張り、廻らせてあり、古くから信仰されていたことが判ります。昭和57年の長崎大水害のおり、裏山が崩れ落ちたが蛙岩が土砂をせき止め、ご社殿を守ったことで「厄難除け」として信仰が増し、当社では蛙岩にちなみ、「厄難除け蛙守り」として小さな陶製のお守りを投与しております。
「出したお金もまたかえる」「旅行から無事帰る」との縁起により評判です。
諏訪神社  末社


長崎歴史文化博物館
長崎奉行所という歴史的な建物を、江戸時代に置かれていた長崎諏訪の杜に復元し展示している、ユニークな体験型博物館。建築家黒川紀章設計の瓦屋根と美しい白壁、立派な石垣に囲まれた復元奉行所と黒い切妻屋根の本館は、和風建築と近代建築が融合していて、まさに「アート」!建物の一部は、なんと発掘された江戸時代のものをそのまま利用しているそうです。
博物館のテーマは「近世長崎の海外交流史」。約400年に及ぶ海外交流の歴史を物語る多数の貴重な歴史的資料や美術工芸品、古文書を収蔵・展示し、「長崎学」の研究拠点となっています。
常設展示では海外との貿易や、キリスト教、中国・オランダとの交流などの歴史を中心に長崎独特の文化も紹介。「パズル」など五感をつかって学べる体験コーナー、伝統工芸の製作体験、マルチスクリーンによる迫力映像など、長崎の歴史の流れを身近に学ぶことが出来るように工夫されています。
「長崎奉行所ゾーン」は、かつてこの場所に建っていた「長崎奉行所 立山役所」を忠実に復元しており、裁判記録にあたる「犯科帳」や重要文化財の「踏絵」などのキリシタン関連資料を展示しています。
長崎公園の中に 長崎歴史文化博物館はある。
玄関


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